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コラム【企画会議室】

VOL.04 学問を支える寄附

わが国では、世界をリードし、日本を発展させていくような優れた研究は「旧帝大」に代表される国立大学から生まれてくることが多い。

今、この国立大学の大学運営資金に危機が訪れている。

国立大学法人の収入源は、大きく分けて国からの運営交付金と自己収入、そして受託研究費や寄附金などの外部資金の三つに分かれる。運営交付金は全体の収入の半分を担うが、法人化された平成16年度以降漸減している。平成23年度時点での総額削減費用は、単科大学や小規模国立大学の26校程度の予算に相当する。自己収入は授業料、入学検定料、附属病院収入などであり、見込まれる額はある程度固定されているため、今後、いかに各大学が独自の戦略を持って外部資金を獲得していくかが、大学経営のカギとなっていく。

外部資金をいかに増やしていくかは、大学内部の研究者の獲得手腕によるところが大きいと思われがちだが、大学の外から誰でもできることがある。 それが「寄附金」である。

欧米の大学の多くは古くから寄附金を大学の運営費に充ててきた。

欧米の大学でも、社会情勢に対応する形で政府予算が決して潤沢ではない時期を見ている。しかし、そのような時期でも寄附金が大学の運営を支えている。大学側もただ指をくわえて寄附を待っていたわけではない。それぞれの大学が戦略的に寄附金を募り、地道に経営基盤を築いてきたのである。

残念ながら、日本では、寄附という行為がある一つの組織を支えうる原動力となるほど社会に浸透していない。日本人には「金銭を人に乞う」という姿勢に映るのか、ことに大学に関する寄附へ対しては、「学問の場で金銭の話はするべきではない」「研究活動にあたって寄附を募るというのは間違っている」という思想が蔓延しているのが実情である。

しかし、よく考えてほしい。寄附とは、自分の得た利益を社会のために再分配する行為であり、そこにあるのは寄附者の善意のみである。学問関係者が自身の研究の発展のために金銭を集い、その趣旨に賛同した人間が善意のもとに寄附する、この行為のどこに双方恥じるところがあろうか。そもそも大学の研究者に支給される研究費もまた国民の税金といえ、見方を変えればそれ自体が国民の寄附とも言えるのである。

未曾有の景気低迷の中で少ないメリットを奪い合うのではなく、少しでも有益な方向に向けて国民全体がそこにある利益をシェアしていかなければ、いずれは自分自身が損失を被ることになる。寄附とは、このように、巡り巡っての自身の幸福に向かって、社会全体をよくしていこうという行為なのである。寄附を受けた方は、その善意を有意義に使い人類全体に貢献することに邁進するべきなのだ。

資源のない日本では人材の育成、先端学問・技術の発展によって国を支えていくことが今後ますます重要であることはいうまでもない。 すでに、大学が蓄積してきた学術成果は、私たちの生活の中で計り知れないほどの貢献をしている。学問の成果を様々な形で享受するひとりとして、現在の日本に迫る学術環境の危機に無知であってはならない。 無知であってはならない、ということに関しては、寄附を募る方も同じである。 日本では、組織や研究者自身が必要な研究費を自分で獲得していこうというスキルも十分ではない。彼ら自身が危機感を持って積極的にならなければ、自身の研究費は減っていく一方だ。しかも、先にも述べたように国にはそのような資金を用意する力はない。

国立大学には、今後世界の医療や技術発展に大きく貢献が期待できる研究が多数蓄積されている。これらの研究が、資金不足からその足取りを止めてしまうことがあってはならないのだ。国民一人一人の寄附によって支えられる部分は私たちの想像以上に大きい。寄附という行為に対する無知や思い違いを啓蒙し、国民全体で利益を共有しながら一丸となって発展する、という姿勢に転換する時が来ているのである。

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